昔の人は細マッチョ?日本人の体格の歴史
2012/03/28 掲載
タニタ社員の中には、健康のためにランニングを趣味とする人も多いのですが、私も半年程前に江ノ島から箱根までの45kmを数時間かけてRun&Walkしました。
東海道を走りながら、ふと短時間で長い距離を走る飛脚はどのような体格だったのだろう・・・。
戦国時代の武士達はどんなカラダだったのだろう・・・。
なんて考えていました。
おそらく無駄な脂肪は一切なく、細身の筋肉質であったと想像します。
そこで今回は“日本人の体格の歴史“について考えてみました。
身長の時代変化
身長の時代変化において興味深いのは縄文、弥生、古墳時代と比較して、鎌倉時代には低くなり、そのまま明治時代まで推移しています。
時代がさかのぼる程小さくなっていく・・・と思っていた人、多いのではないでしょうか。
実際にはなんとビックリ!江戸時代の人の方が縄文時代の人よりも小さかったのですね。
なぜ鎌倉時代以降に低くなったのか?
縄文から弥生時代では狩猟から農耕へと生活様式が変わり、主食も獣肉から米へと変わりました。そして「いいくにつくろう鎌倉幕府」と覚えた1192年に源頼朝が開いた鎌倉幕府では、貴族社会から武家社会へと社会が変化していきました。貴族と違い、武士は玄米と焼魚中心という質素な食事でした。
また肉食をさけた精進料理が広まり、肉類などの動物性たんぱく質の摂取が少なくなったことが身長の低くなった原因ではないかという報告があります。
時代は変わりますが、下の図は昭和23年と平成19年の身長を比較したものです。
昭和23年 | 平成19年 | |
---|---|---|
身長 | 女性:150cm/男性:161cm | 女性:161cm/男性:171cm |
エネルギー摂取量 | 1916 | 1913 |
たんぱく質摂取量 | 64.5 | 70.8 |
動物性たんぱく質摂取量 | 17.8 | 37.8 |
たんぱく質摂取量・動物性たんぱく質摂取量は、男女の平均値を使用
わずか60年もの間に約10cmも平均身長が伸びています。昭和23年といえば、終戦直後で食べ物も豊かではなかった時代。調査結果からも動物性たんぱく質の摂取量が現代の約半分程度であったことがわかります。
鎌倉時代以降に身長が低くなった要因はいくつもあると思いますが、肉や魚の摂取が少ないことも身長の伸びに影響を及ぼしている可能性が考えられのではないでしょうか。
徳川将軍の身長に注目!
では身長が最も低い時代であった江戸時代。お殿様の身長を見てみましょう。
代 | 名前 | 身長 | 備考 |
---|---|---|---|
初代 | 家康 | 159 | |
二代 | 秀忠 | 160 | |
三代 | 家光 | 157 | |
四代 | 家綱 | 158 | |
五代 | 綱吉 | 124 | |
六代 | 家宣 | 156 | |
七代 | 家継 | 135 | 7歳で死去 |
八代 | 吉宗 | 155.5 | |
九代 | 家重 | 151.4 | |
十代 | 家治 | 153.5 | |
十一代 | 家斉 | 156.6 | |
十二代 | 家慶 | 153.5 | |
十三代 | 家定 | 149.9 | |
十四代 | 家茂 | 151.6 | |
十五代 | 慶喜 | 不明 |
5代将軍綱吉が突出して低い身長です。5代将軍と言えば「生類憐みの令」、大奥を創設した人物ですが、意外にもとても小さなお殿様だったのですね。
徳川14代(15代将軍慶喜はわからないため)の中でも身長が高いのは二代秀忠、初代家康です。
家康は若いころはとても細い体格だったのですが、中年以降かっぷくが良くなり、いわゆるメタボなカラダとなってしまいました。しかしカラダを動かすことがとても好きで良く鷹狩をして楽しんだという話です。
そして暴れん坊将軍でおなじみの8代将軍吉宗は155.5cm。もっと高いと思いませんでしたか?イメージとは違うものですね。
また将軍以外にも同じ時代を生きた人物をすこしだけ調べました。
身長 | 体重 | BMI | |
---|---|---|---|
伊達政宗 | 159.4 | --- | --- |
坂本竜馬 | 173 | 80 | 26.7 |
西郷隆盛 | 179 | 109 | 34.0 |
坂本龍馬、西郷隆盛、大きいですね。この時代の平均身長が155~156cmだったことを考えると頭ひとつ分以上大きく、とても目立ったことと思います。
さらにBMIから想像するに坂本龍馬はガッシリマッチョ体型、ますます好きになりました(^^)
江戸時代に体重で健康管理
つづいて体重のお話です。
世界的には古くから体重測定を行っていたようですが、日本ではその歴史は浅いです。身長測定に関しては比較的容易に行えたようで、資料が多く残っております。しかし体重に関する資料は明治時代になってからがほとんどです。
体重測定を「養生訓」で有名な貝原益軒は数回行っています。益軒の生きていた1600年代後半、体重測定は天秤ばかりで測るという非常に大掛かりな作業でした。
しかし益軒は何度も自分と奥様の体重を測定しました。なぜそんな大変な思いをしながらも、体重測定を何度も行ったのでしょうか。益軒夫妻は病弱な身体であり、どのようにして病を予防していくかが大きな課題でした。つまり予防のため、健康管理のために体重を測定していたのです。
身長は成人してからは大きくは変化しませんが、体重は日々変動をしています。病気をすると減り、暴飲暴食をすると増える。朝と夜でも体重は違います。体重の数値をみていけば、身体の変化がわかります。なかには体調の変化がわかる!なんて人もいます。
まだ現在のような医学が進んでいなかった江戸時代に、益軒は客観的に数値で受け止め健康管理していたわけですから、すばらしいですね。
もし、益軒が現代にある体重、体脂肪、筋肉量が一瞬でわかる体組成計をみたらさぞビックリすることでしょう。
せっかく便利な機械がある我々も見習わなければいけませんね!
最近は古き良き日本の食事が見直されていますが、からだづくりの点でも昔の人を見習う必要があるのではないかと思いました。
- 参考図書
- ・墓と埋葬と江戸時代 江戸遺跡研究会編 吉川弘文館(2004)
- ・国民栄養調査 厚生省(昭和23年),国民健康栄養調査 厚生労働省(平成19年)
- ・徳川将軍家十五代のカルテ 篠田 達明新潮社 (2005)
- ・老いてますます楽し―貝原益軒の極意 山崎 光夫新潮社 (2008)